「法事・仏事とは(仮題)」本願寺派 勧学(かんがく)稲城選恵(いなぎせんえ)師
わが国の仏教では、どの宗派でも亡くなった方がたの年忌仏事を勤修する。これを一般に法事とか仏事といわれる。このような習慣は、中国から伝承されたものと思われるが、いかなる意味をもっているのであろうか。死者へのおまつりの如く思う人もあるであろう。またこの年忌仏事を忘却して行わないと、先祖の祟りがあると思っている人もあるであろう。しかし、本来の年忌仏事は他の宗教に見られない甚だ重要な意味を持っているのである。元来、仏事とか法事とは、「仏法に遇わせていただく行事」ということであるが、多くの人は死者に向かい、亡くなった人のおたむけ、追善供養の如くに思われている。それ故、お経もすべて死者へのものの如く思われている。
死者に対するほんとうの姿勢は、「あなたの死を無駄にしません」ということである。広島の原爆記念日でも「安らかに眠れ」といっているが、これは死者に向けた言葉である。むしろ死者を通じて、生き残されたものが、生かされていく世界に向きを変えることこそが重要である。
個人の場合でも、主人を失っても愛児の死別に遇っても「あれだけの寿命」ということで流されないことである。肉親の死はつらいものである。だが、その傷みを通して永遠に主人の死、愛児の死を無駄にしない道を考えなければならない。この無駄にしない道は己自身の上にある。愛児を失い、主人を失ったことにによって自らに向きを転換することである。このことを、主人や愛児によって覚醒させられているのである。自らの死の自覚の上に立つと、いかに資産家であっても、名誉・地位・教養のある人も全く絶望の深淵に立たされる。ただ一人この地上に取り残され、全く生きる希望が喪失する。ここに仏法に遇う最大の機縁が恵まれているのである。この至宝に遇うことによって、亡くなった方をほんとうに無駄にしないことになるのである。
それ故、仏事とか法事といわれるのである。経典は死者に向ける呪文ではない。この私のほんとうに生きる法を説かれているのである。このことを住職・僧侶から伝えてもらう日(場)が、ほんとうの法事・仏事といえよう。
平成十二年七月 稲城選恵
『浄土真宗 臨終・通夜・中陰法話集』「はじめにあたって」より
稲城選恵・梯實圓・秀野大衍 勧学監修 国書刊行会
稲城選恵・梯實圓・秀野大衍 勧学監修 国書刊行会