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2018年1月3日水曜日
今年もお寺で元旦のお参りが勤まりました。うちはゆっくりめで午後1時から。みんなで一緒に正信偈を勤めたのですが、小さな子供たちの大きな声が内陣まで響いてきてとてもありがたく味わいながらのお参りでした。 そのとき考えていたのが、一年をお寺で、お参りで始めるってありがたいことだなってことです。神社への初詣もありがたいことだと思いますが、みんな何を思って手を合わせるのかを考えてみました。たぶん(飽くまで私の憶測です)、一年を建康にとか、家内安全とか、合格祈願とか、病気平癒とか、商売繁盛等々だろうなと思いますし、悪いことではないと思います。でもこれってどれも「私」か「私に関係ある人」に関する願いで、言葉を換えれば欲望・願望の実現です。 仏教には、私(我と言います)の願望をほとけに聞かせて実現してもらうというお参りは存在しません。ことに、浄土真宗はほとけ様の願いをこちらが聞く教えです。私の願いから仏の願いへの転換です。もしも、私の願いをほとけ様に聞いていただくことがあるならば、その願いの中身はこうならなくてはいけません。「たとえ私の身がどのような困難や苦痛に落ち、永遠という時間を過ごさなくてはならないとしても、他の全てのものたちが仕合わせであり、本当の喜びにであえるならば、私は仕合わせであり決して後悔したりしないでしょう。」実はこれ、阿弥陀様が私たちのいのちの仕合わせを願われたときの言葉です。 そのようなほとけ様がいらっしゃる、私のいのちが願われていることを聞かせていただき、励ましてもらうのです。お互いに、ほとけ様の願いの中に励ましてもらう一年を過ごさせていただきたいものです。
2017年12月26日火曜日
お釈迦様の滅後、弟子たちはそれを「死」とは決して表現せず、入滅(滅度、涅槃に入ること)と伝え残してくださいました。なぜなら、お釈迦様がそのように教えていたことと、実際にそこに「死」はなかったからです。確かに、お釈迦様の人間の体の終わりはありました。因果、因縁の教えによれば縁に依って生じているものは無常であるからです。しかし、人間の体の終わりが全ての終わりではなく、それを「涅槃」といただいていく世界があり、その生き方を実践されたのがお釈迦様という方でした。そのお釈迦様が人間のいのちの最後を迎えるとき、そこには空しさや、絶望は一切ありませんでした。 だからといって、お釈迦様は弟子や近しい方が亡くなったとき悲しまなかった訳ではありません。舎利弗尊者が亡くなったときには涙されていたと聞いています。悲しいからだと答えられたそうです。 悲しみが現前にありながらも空しく終わっていかない世界が仏教という教えの世界です。死が死ではなく涅槃といただく世界です。それは生と死の間で生き考えている私たちの知識や経験では決して分かりません。だから生と死を超えた仏さまの言葉を聞くことが大切なのです。生と死を一望の下に見通す無分別の智慧に到達され、怨親平等の慈悲を体現されている方が仏さまであり、阿弥陀様です。そこに私たちのいのちを貫いて支え導いてくださる働きを聞かせていただく。その働きを南無阿弥陀仏と言うのです。
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2017年11月6日月曜日
お釈迦さまは二度、涅槃に入られました。一度目は三十五歳のいわゆる成道(悟りに到達すること)の時、二度目は人間の肉体が滅びる八十歳の時です。肉体をもったままの涅槃は有余涅槃、肉体のない涅槃を無余涅槃と言います。肉体がある限りは苦痛や限定が生じてくるので、無余涅槃の方がより完全な涅槃と言えるでしょう。 お釈迦様は生涯に於いて二度の重要な供養を受けたと言われました。それはそれぞれの涅槃の前に受けた食事の供養を指しています。最初の涅槃の前にはスジャータという村娘から食事の供養を受けました。苦行では悟ることはできないと気づかれたお釈迦さまは、禅定に入られます。その際にスジャータは甘いミルク粥を供養しました。それがあったからお釈迦さまは悟りを開けたと言ってよい供養でした。 もう一度は鍛冶屋の息子チュンダからの供養でした。チュンダの供養は八十才を迎えられたお釈迦さまに対してされたもので、年齢によって体が弱っておられたお釈迦様は、チュンダの供養した食事を召し上がって食中毒になってしまいました。食事の中のキノコが原因ではなかっただろうかといわれています。自らを責め嘆くチュンダのことを案じ、人間の肉体の死を目前にしたお釈迦さまは弟子たちにスジャータとチュンダの供養のすばらしいことを話されました。 「私は生涯で二度の忘れられない尊い供養を受けた。一度目は尼連禅河のほとりでスジャータに受けた供養であり、二度目はクシナガラーのチュンダの供養である。二人の供養によって私は涅槃に入ることができたのだ。」
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2017年10月31日火曜日
2017年10月25日水曜日
最近、利井明弘先生の言葉が思い出され、改めてそのお言葉を味わっています。 「死ぬ覚悟ができるのが浄土真宗の信心とちゃうで。死んだらお浄土の覚悟ができるのが浄土真宗の信心やで。」 いつ死んでも良いという気持ちと、死んだらお浄土なんだという気持ちは、似て非なるものですね。
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2017年10月2日月曜日
時々テレビで目にする「成仏してください」「迷わないでください」と合掌する姿。これはなくなった方が成仏していない、迷っていることが前提の上での祈りです。 また、誰かが亡くなるとメディアでの定型句は「ご冥福をお祈りいたします」。中村仏教辞典によると冥福という言葉は弘法大師の『三教指帰』に出てきますが、この冥福は死者の幸せという意味では用いられていないようです。(間違っていたらごめんなさい)漢字の上で冥は「暗い」を意味します。そして、誰かが亡くなった場で使われる冥福は「冥界、冥土での幸福」という意味でしょう。すると冥福は故人が暗い世界に行ったことを前提としている言葉になります。これって先の「成仏して、迷わないで」と同列上にあると思いませんか?そんな意図はなく故人の死後の幸せを願って使っている方がほとんどだと思います。であるならば、口にする言葉は選んで使われるべきです。 宗教をもたない方には浄土も天国も存在しませんが、キリスト教にはキリスト教の、神道には神道の死後の世界を表現する言葉があります。宗教をもつならば、それぞれの宗教の言葉を大切にしましょう。そして、浄土真宗ではいのちのゆくえを浄土と聞かせていただきます。浄土を「光の世界、限りない命の世界」などと親鸞聖人は表現されます。そこには暗いという意味は全くありません。暗闇が光に、有限が無限に転ぜられていく教えが仏教であり浄土真宗です。そして「不可思議光」「無量寿」といただく浄土という世界があるのです。 ちょっと気恥ずかしいかもしれませんが、「あの方はお浄土に往かれた。私もお浄土に生まれさせていただくのだ。」と口にしてみませんか?
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