2017年9月10日日曜日

先日「お陰さまが中心」という先輩のお話をシェアさせていただきました。 今年の初め頃にある研修会に参加したのですが、そこであるお坊さんが昨年大恩寺からあまり遠くない障害者施設で起こった虐殺事件についてお話しをしてくださいました。犯人は「あいつらは役に立たないから殺していいんだ」と話をしていたということに対してそのお坊さんは、「いつから役に立つ立たないで人を語るようになったのでしょう。」とおっしゃっていました。 正直、どきっとしました。これって何を中心にして生きるかと同じことです。仏教という教えは仏さまを中心とする考え方や生き方を聞く教えです。自らを傍らに置いて仏さまがどのような方であるかを聞かせていただく。そこに私と仏さまの大きな違いが見えてくる。それがとても大切なことです。「お陰さまが中心」も、自らが主でなく傍になってはじめて出てくる言葉です。 いま、「私」を中心に置いて「私」にどれだけ利益をもたらすか、都合が良いか悪いか、役に立つか立たないかで語られることがとても多いように感じます。私は人のことをそんな風に考えていないと思われるかもしれませんが、そう考えなければ生きられないのが人間でもあります。だから仏教の教えを聞くことが大切なんです。 仏さまが中心となったとき、世界がどのように見えるのか。ひとりひとり、ひとつひとつの命が仏さまの目にどのように映るのか。ぜひ、聞いて欲しいです。

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2017年9月2日土曜日

お陰さまがベース

広島の先輩がFBにこんなことを載せていらっしゃいました。ちょっとシェアさせていただきます。

「ご法事の後にお茶を頂きながら、あれこれとお話しさせて頂きました。お姉さんは東京でテレビ関係のお仕事をしておられるのですが、大変お忙しくしておられるご様子でした。お母さんが、もうブラックですよ〜〜って仰るので、私も8月は休み無しのブラックですよと笑いながらお返事すると、お姉さんが、でもお寺っていいですよね〜、考え方のベースが素晴らしいですよ。私たちはお客様の利益の為にと言いながら、自分たちの営業成績をあげる事を優先してますもの。お寺ってお陰様がベースですよね、羨ましいですよと仰るのです。私は、そうですよね、忙しくても有難いし楽しいですよとお返事致しました。」

お寺はお陰さまがベースとご門徒さんが言い切っておられることがありがたい。
生活の中ではいろいろなものをベースにしなくてはいけない状況にあわれると思います。だからどうぞ、時々はお陰さまがベースの時間をとり、心のバランスをとるように心がけてください。

2017年8月29日火曜日

法事とは

「法事・仏事とは(仮題)」本願寺派 勧学(かんがく)稲城選恵(いなぎせんえ)師
 わが国の仏教では、どの宗派でも亡くなった方がたの年忌仏事を勤修する。これを一般に法事とか仏事といわれる。このような習慣は、中国から伝承されたものと思われるが、いかなる意味をもっているのであろうか。死者へのおまつりの如く思う人もあるであろう。またこの年忌仏事を忘却して行わないと、先祖の祟りがあると思っている人もあるであろう。しかし、本来の年忌仏事は他の宗教に見られない甚だ重要な意味を持っているのである。元来、仏事とか法事とは、「仏法に遇わせていただく行事」ということであるが、多くの人は死者に向かい、亡くなった人のおたむけ、追善供養の如くに思われている。それ故、お経もすべて死者へのものの如く思われている。
 死者に対するほんとうの姿勢は、「あなたの死を無駄にしません」ということである。広島の原爆記念日でも「安らかに眠れ」といっているが、これは死者に向けた言葉である。むしろ死者を通じて、生き残されたものが、生かされていく世界に向きを変えることこそが重要である。
 個人の場合でも、主人を失っても愛児の死別に遇っても「あれだけの寿命」ということで流されないことである。肉親の死はつらいものである。だが、その傷みを通して永遠に主人の死、愛児の死を無駄にしない道を考えなければならない。この無駄にしない道は己自身の上にある。愛児を失い、主人を失ったことにによって自らに向きを転換することである。このことを、主人や愛児によって覚醒させられているのである。自らの死の自覚の上に立つと、いかに資産家であっても、名誉・地位・教養のある人も全く絶望の深淵に立たされる。ただ一人この地上に取り残され、全く生きる希望が喪失する。ここに仏法に遇う最大の機縁が恵まれているのである。この至宝に遇うことによって、亡くなった方をほんとうに無駄にしないことになるのである。
 それ故、仏事とか法事といわれるのである。経典は死者に向ける呪文ではない。この私のほんとうに生きる法を説かれているのである。このことを住職・僧侶から伝えてもらう日(場)が、ほんとうの法事・仏事といえよう。
平成十二年七月 稲城選恵
『浄土真宗 臨終・通夜・中陰法話集』「はじめにあたって」より
稲城選恵・梯實圓・秀野大衍 勧学監修 国書刊行会

2017年8月22日火曜日

悪人正機

浄土真宗の教えには「悪人正機」という言葉があります。とても有名な言葉かと思います。もともとの出拠は法然聖人ですが、親鸞聖人のお言葉を集めた『歎異抄』にこの意がでてきますので、親鸞聖人の教えの特徴と考えられることが多いかと思います。
悪人は善人悪人の悪人。
正はまさしき。
機とは救いの対象、めあて。
ですから、悪人正機とは阿弥陀如来の他力本願の救済は悪人を正しきめあてとしていることを表しています。
仏教には、仏さまは良いけれど私が言ってはいけない言葉があります。この悪人正機はそのひとつです。私が私の上で悪人正機と言うとき、そこに自身の悪を恥じる姿はありません。悪人正機とは、自身の罪悪を恥じ悲しむ者に対して仏さまがおっしゃる言葉なのです。
同じように仏さまだけが言うべき言葉があります。「そのまま救う」という言葉です。仏さまと、私と、教えを医療の関係で喩えることがあります。仏さまは医者、私は病人、そして教えが薬です。お医者さまは病人に対して「そのまま病院に来なさい」と言います。治してから来なさいとは言いません。また、病人はあるべきでない状態にあるから病人です。決してそのままで良い状態にはないのです。「このままで良い」訳がありません。「そのまま救う」というのは仏さまの大悲の言葉であって、それを「このままで良いのだ」と考えるのは私の自分勝手な都合のわがままでしかないのです。
仏教は私の本当を教えてくれます。私の本当を仏さまは「悪人」と呼ばれました。「悪人を必ず救う」とおっしゃった本願のお言葉を私たちはもう一度大切に考えてみるべきですね。

2017年8月19日土曜日

お焼香

先日、なぜマナー講師にお焼香の作法を聞いて僧侶には聞かないのだろうという先輩のコメントがあり、まさにその通りだと思いました。マナー講師は仏教については素人なので(ごめんなさい)大概間違った焼香作法を言ってますよ。宗派によっても違いがあるので注意しましょう。西本願寺と東本願寺でも違いがあるくらいです。
下は参考までに西本願寺のお焼香作法です。お焼香は仏さまに対する香りのお供え(供養)です。挨拶の場ではないので右に礼、左に礼は不要ですし間違いです。