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2018年1月3日水曜日
今年もお寺で元旦のお参りが勤まりました。うちはゆっくりめで午後1時から。みんなで一緒に正信偈を勤めたのですが、小さな子供たちの大きな声が内陣まで響いてきてとてもありがたく味わいながらのお参りでした。 そのとき考えていたのが、一年をお寺で、お参りで始めるってありがたいことだなってことです。神社への初詣もありがたいことだと思いますが、みんな何を思って手を合わせるのかを考えてみました。たぶん(飽くまで私の憶測です)、一年を建康にとか、家内安全とか、合格祈願とか、病気平癒とか、商売繁盛等々だろうなと思いますし、悪いことではないと思います。でもこれってどれも「私」か「私に関係ある人」に関する願いで、言葉を換えれば欲望・願望の実現です。 仏教には、私(我と言います)の願望をほとけに聞かせて実現してもらうというお参りは存在しません。ことに、浄土真宗はほとけ様の願いをこちらが聞く教えです。私の願いから仏の願いへの転換です。もしも、私の願いをほとけ様に聞いていただくことがあるならば、その願いの中身はこうならなくてはいけません。「たとえ私の身がどのような困難や苦痛に落ち、永遠という時間を過ごさなくてはならないとしても、他の全てのものたちが仕合わせであり、本当の喜びにであえるならば、私は仕合わせであり決して後悔したりしないでしょう。」実はこれ、阿弥陀様が私たちのいのちの仕合わせを願われたときの言葉です。 そのようなほとけ様がいらっしゃる、私のいのちが願われていることを聞かせていただき、励ましてもらうのです。お互いに、ほとけ様の願いの中に励ましてもらう一年を過ごさせていただきたいものです。
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