2018年7月9日月曜日

昨日は初盆法要が勤まり、大勢の方がこの一年の間に亡くされた大切な方を偲んでお参りに来てくださいました。 ご講師先生がオウム真理教テロの首謀者であった松本智津夫元死刑囚について少しお話になったことがとても大切なことだと思いましたので紹介させていただきます。 先生は死刑の是非についてはお話しになりませんでしたが、死刑はまだすべきではなかったとおっしゃいました。と言いますのも、松本智津夫元死刑囚は「私の言ったこと(オウム真理教)は嘘偽りでした。」ということをはっきりと述べていないからです。この一言があるかないかで、彼の死後、洗脳された人々が解放されるかされないかに大きな影響が残ります。 (ここからは私のコメントです。) すでに刑は執行され、松本智津夫元死刑囚は帰らぬ人となりました。しかし、彼の残した言葉はそれを信ずる人々の中に残っていくでしょう。そして、「宗教」に対する正しい知識と認識をもたない人の心の弱い部分につけこんでいくでしょう。 オウムのテロ以来、条件反射的に「宗教は怖い」ということを言う人が多くなりました。誤解を恐れずに申し上げれば、宗教に対する正しい知識と認識を持たない方がこのようなことをおっしゃっているように思います。正しい宗教は正しい生き方とものの考え方を教えてくれます。例えば私たちが「倫理/道徳」と呼ぶものの多くが宗教を土台としているのです。 だから是非一度正しい宗教の教えを聞いてみてください。

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2018年5月1日火曜日

現在大恩寺はホームページと、ブログとフェイスブックpageという3つのインターネットサイトを持っていて、その三者を関連づけるのに大変苦労しています。 ホームページ(HP)からブログへはリンクが貼ってあって簡単に往き来ができるのだけれど、ブログとフェイスブックpage(FB page)を関連づけるのが大変でした。 今の時点でHPにリンクされているブログはBloggerで作ったものですが、どうもブログとFB pageをつなぐIFTTTというものがBloggerとの相性が良くないようで。というのも、FB pageで公開したものが自動的にブログにも公開されるというシステムがIFTTTで、いちいち両方を更新する手間を省いてくれるはずなのにFB更新の際にブログが更新されないということが起きていました。 そこで思い切ってBloggerをやめて新しい場所でブログを始めようと思い、いろいろとテストをしていた次第です。 もう少し時間がかかりそうです。

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やっと 成功した。

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Test VII Fb to wordpress

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testVI fbからブログへ

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2018年4月16日月曜日

水野弘元先生の『仏教の基礎知識』(1971年初版、春秋社)より。 厳しいお言葉だけど、僧侶としては肝に銘じておかなければいけない。 今日の日本の仏教は、寺院と僧侶がこれを代表しているが、一般の人から外部的に見るかぎり、日本の現在の仏教や寺院は過去の遺物に過ぎない面も少なからずある。 寺院は死者の葬儀や法要を営む場所であるか、現世利益的な呪術や祈祷をなす祈祷寺院であるか、過去の文化財としての建造物・仏像・庭園などを見せる観光寺院であるかであって、そこには世の人々の魂を救い、生きる力を与えてくれるような人間学としての仏教は、まったく見出されないというのが事実であろう。 少なくとも一般民衆、とくに若い人々には、伝統的な仏教寺院や僧侶は、右のような印象を与えている。そこにはかれらの心を引きつけるものがほとんどない。むしろ若い人たちは宗教信仰としては、新興宗教なでに入っていくが、それは新興宗教には、かれらを引きつける新鮮さや若さや魅力があるからである。 しかし実際には、古い仏教に属する人々でも、仏教本来の人間学を説いている者もあり、また民衆を指導教化するために大いに活躍している者もあるけれども、大部分の寺院や僧侶は伝統の上にあぐらをかき、真の仏教を民衆に知らせ、かれらの魂の救済をなすという仏教者本来の任務を怠っているために、一般民衆は仏教がどのようにすばらしい教えをもっているかということを知らされず、そのために仏教は現代には役に立たない過去の遺物であるかのように考えられ、若い人たちから無視され敬遠されているのである。これは仏教の真相を広く知らせることをしなかった仏教者の怠慢であるとしなければならない。

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2018年1月27日土曜日

2018年1月7日日曜日

お寺が大変お世話になった方が入院されたとのことでお見舞いに行ってきました。普段は絶対に人の悪口や嫌いということを言わない父がこの病院は嫌いだと珍しいことを言っていたので理由を聞いてみたところ、以前お坊さんの格好で見舞いに訪れた際にそんな格好で来るなと受付で言われたそうです。アメリカだったら裁判だな、で、病院が確実に負けるなというような出来事です。 確かに僧侶として人の死の場面に接することは多いです。ですが、お坊さんが死を運んでくるのではありませんし、お坊さんに会ったから死ぬのでもありません。もしかしたらお坊さんを見ることによって、それまで考えたこともなかった自身や親しい方の死を考えてしまうのでしょうか。もしそうであるならば、とても大事なことだと思います。自分が死ぬ間際になって「死ってなんだろう」「生ってなんだろう」って考えても手遅れかもしれないですけどね。 アメリカではとか日本ではとかあまり言いたくありませんが、日本の医療機関の多くは宗教に対する理解がとても低いように思います。アメリカの医療機関にはホスピタルチャプレンという国家資格をもつ宗教者が常駐していることが多く、入院患者、その家族、そして医療に携わる方に対して宗教行為やカウンセリングを行います。チャプレンは警察や刑務所, 学校などなど様々な機関にいます。 私はチャプレンの資格は持っていませんでしたが、宗教者として定期的に病院やリハビリ施設、老人ホームを訪問していました。また、臨終のお参りをお願いされて病院やホスピスでお参りすることも頻繁にありました。 仏教を知らない人が仏教者の格好を見て驚くことはありましたが、宗教に関係なく宗教者に対する敬意はどのような状況でも感じることができました。だから病院などでお坊さんの格好をしていて何か言われることは決してありませんでしたし、逆に良く来てくれたと歓迎されました。 一度ある檀家さんの臨終勤行にうかがった時のことです。その方はガンを患っており痛みもあったと思うのですが、私が部屋を訪れると喜んで私を迎えてくださり、涙を流しながらお礼を言われました。クリスチャンである娘さん夫婦と一緒に讃仏偈をお勤めしましたが、その方は体を起こしとても美しい姿勢で合掌し念仏されていました。 数日後その方が亡くなった際に娘さん夫婦に改めて臨終のお参りのお礼を言われました。お坊さんと一緒にお参りをしていた母親の安心感と喜びがとても伝わってきてお寺に連絡して本当に良かったと思うという旨の言葉をくださいました。娘さんとしてはとても複雑な気持ちでお寺に連絡をくださったと思います。ですが、お母様がどれだけお寺を大切にし喜ばれていたかを知っていたからこそお坊さんに来て欲しかったそうです。そして娘さんも一緒にお参りをして本当に良かったとおっしゃっていました。 もし、この文章を医療や病院に携わる方が読んでくださっているなら是非ご一考ください。お坊さんの話が聞きたいという方が病院にいるならば、お坊さんとしてお見舞いさせてください。

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2018年1月3日水曜日

今年もお寺で元旦のお参りが勤まりました。うちはゆっくりめで午後1時から。みんなで一緒に正信偈を勤めたのですが、小さな子供たちの大きな声が内陣まで響いてきてとてもありがたく味わいながらのお参りでした。 そのとき考えていたのが、一年をお寺で、お参りで始めるってありがたいことだなってことです。神社への初詣もありがたいことだと思いますが、みんな何を思って手を合わせるのかを考えてみました。たぶん(飽くまで私の憶測です)、一年を建康にとか、家内安全とか、合格祈願とか、病気平癒とか、商売繁盛等々だろうなと思いますし、悪いことではないと思います。でもこれってどれも「私」か「私に関係ある人」に関する願いで、言葉を換えれば欲望・願望の実現です。 仏教には、私(我と言います)の願望をほとけに聞かせて実現してもらうというお参りは存在しません。ことに、浄土真宗はほとけ様の願いをこちらが聞く教えです。私の願いから仏の願いへの転換です。もしも、私の願いをほとけ様に聞いていただくことがあるならば、その願いの中身はこうならなくてはいけません。「たとえ私の身がどのような困難や苦痛に落ち、永遠という時間を過ごさなくてはならないとしても、他の全てのものたちが仕合わせであり、本当の喜びにであえるならば、私は仕合わせであり決して後悔したりしないでしょう。」実はこれ、阿弥陀様が私たちのいのちの仕合わせを願われたときの言葉です。 そのようなほとけ様がいらっしゃる、私のいのちが願われていることを聞かせていただき、励ましてもらうのです。お互いに、ほとけ様の願いの中に励ましてもらう一年を過ごさせていただきたいものです。

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