2017年12月26日火曜日

お釈迦様の滅後、弟子たちはそれを「死」とは決して表現せず、入滅(滅度、涅槃に入ること)と伝え残してくださいました。なぜなら、お釈迦様がそのように教えていたことと、実際にそこに「死」はなかったからです。確かに、お釈迦様の人間の体の終わりはありました。因果、因縁の教えによれば縁に依って生じているものは無常であるからです。しかし、人間の体の終わりが全ての終わりではなく、それを「涅槃」といただいていく世界があり、その生き方を実践されたのがお釈迦様という方でした。そのお釈迦様が人間のいのちの最後を迎えるとき、そこには空しさや、絶望は一切ありませんでした。 だからといって、お釈迦様は弟子や近しい方が亡くなったとき悲しまなかった訳ではありません。舎利弗尊者が亡くなったときには涙されていたと聞いています。悲しいからだと答えられたそうです。 悲しみが現前にありながらも空しく終わっていかない世界が仏教という教えの世界です。死が死ではなく涅槃といただく世界です。それは生と死の間で生き考えている私たちの知識や経験では決して分かりません。だから生と死を超えた仏さまの言葉を聞くことが大切なのです。生と死を一望の下に見通す無分別の智慧に到達され、怨親平等の慈悲を体現されている方が仏さまであり、阿弥陀様です。そこに私たちのいのちを貫いて支え導いてくださる働きを聞かせていただく。その働きを南無阿弥陀仏と言うのです。

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2017年11月6日月曜日

お釈迦さまは二度、涅槃に入られました。一度目は三十五歳のいわゆる成道(悟りに到達すること)の時、二度目は人間の肉体が滅びる八十歳の時です。肉体をもったままの涅槃は有余涅槃、肉体のない涅槃を無余涅槃と言います。肉体がある限りは苦痛や限定が生じてくるので、無余涅槃の方がより完全な涅槃と言えるでしょう。 お釈迦様は生涯に於いて二度の重要な供養を受けたと言われました。それはそれぞれの涅槃の前に受けた食事の供養を指しています。最初の涅槃の前にはスジャータという村娘から食事の供養を受けました。苦行では悟ることはできないと気づかれたお釈迦さまは、禅定に入られます。その際にスジャータは甘いミルク粥を供養しました。それがあったからお釈迦さまは悟りを開けたと言ってよい供養でした。 もう一度は鍛冶屋の息子チュンダからの供養でした。チュンダの供養は八十才を迎えられたお釈迦さまに対してされたもので、年齢によって体が弱っておられたお釈迦様は、チュンダの供養した食事を召し上がって食中毒になってしまいました。食事の中のキノコが原因ではなかっただろうかといわれています。自らを責め嘆くチュンダのことを案じ、人間の肉体の死を目前にしたお釈迦さまは弟子たちにスジャータとチュンダの供養のすばらしいことを話されました。 「私は生涯で二度の忘れられない尊い供養を受けた。一度目は尼連禅河のほとりでスジャータに受けた供養であり、二度目はクシナガラーのチュンダの供養である。二人の供養によって私は涅槃に入ることができたのだ。」

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2017年10月31日火曜日

おみがき

今日は報恩講と新年を迎える準備でおみがきをしました。昔みたいにピカールでごしごしではなく、溶剤のテガールを使いました。みんな一所懸命手伝って下さったからあっという間に終わってしまいました。写真は昼食の様子です。お手伝い、ありがとうございました。


2017年10月25日水曜日

最近、利井明弘先生の言葉が思い出され、改めてそのお言葉を味わっています。 「死ぬ覚悟ができるのが浄土真宗の信心とちゃうで。死んだらお浄土の覚悟ができるのが浄土真宗の信心やで。」 いつ死んでも良いという気持ちと、死んだらお浄土なんだという気持ちは、似て非なるものですね。

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2017年10月2日月曜日

時々テレビで目にする「成仏してください」「迷わないでください」と合掌する姿。これはなくなった方が成仏していない、迷っていることが前提の上での祈りです。 また、誰かが亡くなるとメディアでの定型句は「ご冥福をお祈りいたします」。中村仏教辞典によると冥福という言葉は弘法大師の『三教指帰』に出てきますが、この冥福は死者の幸せという意味では用いられていないようです。(間違っていたらごめんなさい)漢字の上で冥は「暗い」を意味します。そして、誰かが亡くなった場で使われる冥福は「冥界、冥土での幸福」という意味でしょう。すると冥福は故人が暗い世界に行ったことを前提としている言葉になります。これって先の「成仏して、迷わないで」と同列上にあると思いませんか?そんな意図はなく故人の死後の幸せを願って使っている方がほとんどだと思います。であるならば、口にする言葉は選んで使われるべきです。 宗教をもたない方には浄土も天国も存在しませんが、キリスト教にはキリスト教の、神道には神道の死後の世界を表現する言葉があります。宗教をもつならば、それぞれの宗教の言葉を大切にしましょう。そして、浄土真宗ではいのちのゆくえを浄土と聞かせていただきます。浄土を「光の世界、限りない命の世界」などと親鸞聖人は表現されます。そこには暗いという意味は全くありません。暗闇が光に、有限が無限に転ぜられていく教えが仏教であり浄土真宗です。そして「不可思議光」「無量寿」といただく浄土という世界があるのです。 ちょっと気恥ずかしいかもしれませんが、「あの方はお浄土に往かれた。私もお浄土に生まれさせていただくのだ。」と口にしてみませんか?

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2017年9月10日日曜日

先日「お陰さまが中心」という先輩のお話をシェアさせていただきました。 今年の初め頃にある研修会に参加したのですが、そこであるお坊さんが昨年大恩寺からあまり遠くない障害者施設で起こった虐殺事件についてお話しをしてくださいました。犯人は「あいつらは役に立たないから殺していいんだ」と話をしていたということに対してそのお坊さんは、「いつから役に立つ立たないで人を語るようになったのでしょう。」とおっしゃっていました。 正直、どきっとしました。これって何を中心にして生きるかと同じことです。仏教という教えは仏さまを中心とする考え方や生き方を聞く教えです。自らを傍らに置いて仏さまがどのような方であるかを聞かせていただく。そこに私と仏さまの大きな違いが見えてくる。それがとても大切なことです。「お陰さまが中心」も、自らが主でなく傍になってはじめて出てくる言葉です。 いま、「私」を中心に置いて「私」にどれだけ利益をもたらすか、都合が良いか悪いか、役に立つか立たないかで語られることがとても多いように感じます。私は人のことをそんな風に考えていないと思われるかもしれませんが、そう考えなければ生きられないのが人間でもあります。だから仏教の教えを聞くことが大切なんです。 仏さまが中心となったとき、世界がどのように見えるのか。ひとりひとり、ひとつひとつの命が仏さまの目にどのように映るのか。ぜひ、聞いて欲しいです。

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2017年9月2日土曜日

お陰さまがベース

広島の先輩がFBにこんなことを載せていらっしゃいました。ちょっとシェアさせていただきます。

「ご法事の後にお茶を頂きながら、あれこれとお話しさせて頂きました。お姉さんは東京でテレビ関係のお仕事をしておられるのですが、大変お忙しくしておられるご様子でした。お母さんが、もうブラックですよ〜〜って仰るので、私も8月は休み無しのブラックですよと笑いながらお返事すると、お姉さんが、でもお寺っていいですよね〜、考え方のベースが素晴らしいですよ。私たちはお客様の利益の為にと言いながら、自分たちの営業成績をあげる事を優先してますもの。お寺ってお陰様がベースですよね、羨ましいですよと仰るのです。私は、そうですよね、忙しくても有難いし楽しいですよとお返事致しました。」

お寺はお陰さまがベースとご門徒さんが言い切っておられることがありがたい。
生活の中ではいろいろなものをベースにしなくてはいけない状況にあわれると思います。だからどうぞ、時々はお陰さまがベースの時間をとり、心のバランスをとるように心がけてください。

2017年8月29日火曜日

法事とは

「法事・仏事とは(仮題)」本願寺派 勧学(かんがく)稲城選恵(いなぎせんえ)師
 わが国の仏教では、どの宗派でも亡くなった方がたの年忌仏事を勤修する。これを一般に法事とか仏事といわれる。このような習慣は、中国から伝承されたものと思われるが、いかなる意味をもっているのであろうか。死者へのおまつりの如く思う人もあるであろう。またこの年忌仏事を忘却して行わないと、先祖の祟りがあると思っている人もあるであろう。しかし、本来の年忌仏事は他の宗教に見られない甚だ重要な意味を持っているのである。元来、仏事とか法事とは、「仏法に遇わせていただく行事」ということであるが、多くの人は死者に向かい、亡くなった人のおたむけ、追善供養の如くに思われている。それ故、お経もすべて死者へのものの如く思われている。
 死者に対するほんとうの姿勢は、「あなたの死を無駄にしません」ということである。広島の原爆記念日でも「安らかに眠れ」といっているが、これは死者に向けた言葉である。むしろ死者を通じて、生き残されたものが、生かされていく世界に向きを変えることこそが重要である。
 個人の場合でも、主人を失っても愛児の死別に遇っても「あれだけの寿命」ということで流されないことである。肉親の死はつらいものである。だが、その傷みを通して永遠に主人の死、愛児の死を無駄にしない道を考えなければならない。この無駄にしない道は己自身の上にある。愛児を失い、主人を失ったことにによって自らに向きを転換することである。このことを、主人や愛児によって覚醒させられているのである。自らの死の自覚の上に立つと、いかに資産家であっても、名誉・地位・教養のある人も全く絶望の深淵に立たされる。ただ一人この地上に取り残され、全く生きる希望が喪失する。ここに仏法に遇う最大の機縁が恵まれているのである。この至宝に遇うことによって、亡くなった方をほんとうに無駄にしないことになるのである。
 それ故、仏事とか法事といわれるのである。経典は死者に向ける呪文ではない。この私のほんとうに生きる法を説かれているのである。このことを住職・僧侶から伝えてもらう日(場)が、ほんとうの法事・仏事といえよう。
平成十二年七月 稲城選恵
『浄土真宗 臨終・通夜・中陰法話集』「はじめにあたって」より
稲城選恵・梯實圓・秀野大衍 勧学監修 国書刊行会

2017年8月22日火曜日

悪人正機

浄土真宗の教えには「悪人正機」という言葉があります。とても有名な言葉かと思います。もともとの出拠は法然聖人ですが、親鸞聖人のお言葉を集めた『歎異抄』にこの意がでてきますので、親鸞聖人の教えの特徴と考えられることが多いかと思います。
悪人は善人悪人の悪人。
正はまさしき。
機とは救いの対象、めあて。
ですから、悪人正機とは阿弥陀如来の他力本願の救済は悪人を正しきめあてとしていることを表しています。
仏教には、仏さまは良いけれど私が言ってはいけない言葉があります。この悪人正機はそのひとつです。私が私の上で悪人正機と言うとき、そこに自身の悪を恥じる姿はありません。悪人正機とは、自身の罪悪を恥じ悲しむ者に対して仏さまがおっしゃる言葉なのです。
同じように仏さまだけが言うべき言葉があります。「そのまま救う」という言葉です。仏さまと、私と、教えを医療の関係で喩えることがあります。仏さまは医者、私は病人、そして教えが薬です。お医者さまは病人に対して「そのまま病院に来なさい」と言います。治してから来なさいとは言いません。また、病人はあるべきでない状態にあるから病人です。決してそのままで良い状態にはないのです。「このままで良い」訳がありません。「そのまま救う」というのは仏さまの大悲の言葉であって、それを「このままで良いのだ」と考えるのは私の自分勝手な都合のわがままでしかないのです。
仏教は私の本当を教えてくれます。私の本当を仏さまは「悪人」と呼ばれました。「悪人を必ず救う」とおっしゃった本願のお言葉を私たちはもう一度大切に考えてみるべきですね。

2017年8月19日土曜日

お焼香

先日、なぜマナー講師にお焼香の作法を聞いて僧侶には聞かないのだろうという先輩のコメントがあり、まさにその通りだと思いました。マナー講師は仏教については素人なので(ごめんなさい)大概間違った焼香作法を言ってますよ。宗派によっても違いがあるので注意しましょう。西本願寺と東本願寺でも違いがあるくらいです。
下は参考までに西本願寺のお焼香作法です。お焼香は仏さまに対する香りのお供え(供養)です。挨拶の場ではないので右に礼、左に礼は不要ですし間違いです。

2017年8月18日金曜日

IFTTTを利用してブログの更新をFBに反映させているのですが、ちょっと遅い。それからリンク形式になってしまう。ということで、FBにもコピペしてみました。同じ投稿の案内が重複してくるかもしれません。ご迷惑をおかけします。

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もったいない

朝テレビを見ていたら、「インスタ映え」というテーマで旅行や食べ物のことを特集していました。写真をSNSに投稿して「リア充」(現実が充実しているの意か)を人に見てもらいたいそうです。そのための見映えする写真をとるために出かけていくのですと。すごい見栄っ張りなんだろうな。昔漫画で読んだ成金のおじさんが高級車を見せびらかしてニコって笑うと金歯がキラリと光るのが思い浮かびました。
それを見ながらふと「勿体ない」とつぶやいていました。勿体とは物事の本質を意味し、それが失われることを勿体ないといいます。(他にも意味はあります。)インスタ映えする写真を撮るために溶けてしまったアイスクリーム。インスタ映えするから選ぶ旅行先。私もSNSは好きですが、SNSは飽くまでもツールです。ツールのための食事や旅行はしません。
たまたま同じ今朝、フェイスブックで共有されていたアメリカ海軍提督のスピーチを見ました。(https://www.youtube.com/watch?v=pxBQLFLei70)その中で、「見た目や、出自、肌の色、肩書きで人を見るのではなく、その人の心の大きさを見なさい。」という一段がありました。インスタ映えとは真逆のスピーチでした。
「インスタ映え」のためってなんか勿体ないですね。

2017年8月14日月曜日

お盆法要

昨日は大恩寺のお盆法要でした。大勢の方がお参りくださいました。
午前のお参りが始まる前に高尾警察署の警察官が来てくださり、振り込め詐欺についてお話しをくださいました。テレビで見聞きしていることもありましたが、実際に本職の方の顔を見て話を聞くのは違いますね。初めて聞くこともあり、大変有意義だったと思います。
「電話番号を変えた」「市役所の某です」「警察官の某がいまから行く」「ATMに行って」「カード見せて」「暗証番号教えて」などなど、これを考える時間と労力を他に向ければ真っ当に稼げるだろうに、と思ってしまうほど手口は巧妙になっているようです。
皆様もご家族で話し合って対策を考えてください。

2017年8月5日土曜日

法事の場所

暑いですね。蒸します。
今日お墓で納骨がありました。お寺の本堂で四十九日をお勤めしてから霊園に移動しての納骨でしたので、お骨を納めて短いお経をいただいて、墓前では待ち時間を含めて30分もかからなかったと思います。それでもかなり暑かったです。
ときどき、年忌法要(一周忌とか三回忌などのいわゆる法事のこと)をお墓でやってくださいとお願いされることがあります。もちろん断ることはしないですが、積極的にこちらから墓前でやりましょうと勧めることはしません。納骨や建碑(お墓を建てる)というお墓でなくてはできないお参り以外は、お寺やご自宅の仏壇前でお勤めされることを強くお勧めいたします。
理由はごく簡単です。それは「落ち着かないから」です。想像してみてください。この猛暑の中、30分間立ちっぱなし。極寒の中、30分間立ちっぱなし。雨の中、立ちっぱなし。強風の中、立ちっぱなし。蚊も飛んでいます。近くでは別のお参りの方もいらっしゃいます。となりのお墓の方がお参りに来ていることもあります。
お墓参りを法事の一部としては考えなくて良いと思います。法事は法事。お墓参りはお墓参り。お寺で法事を勤めてからお墓参りに行くとか、お墓参りを先にしてからお寺で法事とか。同日でなくてもいいです。それから、基本的にお墓参りにはお坊さんは同行いたしません。先ほど述べた納骨や建碑などの特別な場合にお坊さんはお墓に同行してお参りをします。
ですので、法事はぜひご自宅かお寺でお勤めください。本当のところをいうと、お寺ですることが一番いいですよ。専用の施設ですし、こちらで全ての準備を整えてお待ちしてますからね。蛇足ですが、お堂の使用料や道具のレンタル料もかかりませんしね。
以上述べたことは他の宗派では違うかもしれません。また、大恩寺では納骨堂や無量寿堂に納骨されている場合、本堂での法事の後、僧侶が一緒に納骨仏壇前で短いお参りをさせていただいています。

2017年8月2日水曜日

詩人八木重吉

本を読んでいたら、聞き覚え(見覚え)のある詩人が紹介されていました。それは大恩寺にほど近いところの出身である八木重吉氏です。実はお寺から車で5分ほどの距離にこの方の記念館があり、そのため「見覚え」があったのでした。

「求めよ 与えられん」
しかし
寂しい 路だ
息づまるように さびしい
でも
行かねばならぬ
行かねばならぬ

「この世があまりにもみにくすぎるから、自分自身があまりにも虚偽にみちているから、それだけに、一度でもいい、真実なるものにふれてみたい、真実の世界をたしかめてみたいと切に願うものは、重吉のように、寂しくても、行かねばならぬ、人生の旅人たらざるをえないのである。」(梯実円師『白道をゆく』)

八木重吉氏は町田市相原出身の詩人であり、詩の言葉から分かるようにクリスチャンでした。今年、八木重吉記念館の館長であり、息子さんであった八木藤雄さんが亡くなられたため記念館は休業中ですが、昨日問い合わせの電話をしたら10月を目指して開業の準備中だそうです。ぜひ一度訪れてみたいと思います。

2017年7月25日火曜日

夏安居

本山の安居(夏季勉強会)に来ています。朝7時から午前中いっぱい講義があり、午後も講習などがあります。本年の本講(義)は森田眞円勧学による『観経玄義分』、副講(義)は殿内恒司教の『浄土三経往生文類』と内藤昭文司教の『大乗荘厳経論無量章』、それから満井秀城司教による会読。論題は「六字釈義」「三往生義」「是報非化」。
熱いです!

2017年7月18日火曜日

遇獲行信遠慶宿縁

先日、親鸞聖人の真蹟集の中に挟まっていた祖父岡本泰雄のものと思われる書がでてきました。書と言っても余り紙を使って練習したものではないかと思いますが、とてもかっこいい字だと感じましたのでスキャンして汚れをとってみました。
このご文は「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」と読みます。
親鸞聖人は「あう」という言葉に目的をもって数通りの違う漢字を当てますが、たまたまと読む「遇」の字を使って「遇う」(あう)と読ませることがあります。その場合、私の側からは思いもよらず「たまたま」あうことができたの意味になりますが、だからこそ大きな喜びがそこにはあります。(仏さまの側からは必然の出遇いとして味わいます。)
行信とは本願に誓われる「至心信楽欲生我国乃至十念」のことなので、そのまま本願を意味します。
宿縁とは「宿世の強縁」のことであり、遙かな昔より今日に至るまでの様々なそして全ての仏さまによるお育てのことです。
「思いがけずながらも、阿弥陀如来の本願に出遇わせていただいたのなら、はるかな昔より今日に至るまでの仏さまのお働きを慶ばせていただきましょう。」と現代語訳することができるでしょうか。
もし、このように味わうことができるのなら、私が生まれてくる前から、そして生まれてきてから今日までの全てが大切な意味をもつものといただくことができるのでしょうね。それはさらに私の未来にも大事な意味と方向を教えてくれます。
浄土真宗の教えとか、本願念仏の教えと言われるものはそんな意味と働きをもつ教えなんです。

2017年7月15日土曜日

岡本泰雄の書

祖父岡本泰雄の書が出てきました。お聖教の間にメモのように挟まっていたもので、たぶん練習したものかと思います。また、後ほど説明を加えたいと思います。

2017年7月14日金曜日

7/12の写真です。前日も開いていたようですが見逃しました。今日(7/12)の方が大きく開いていたそうです。
梵天(ブラーフマン)がお釈迦さまにご説法の決断を迫った時、「世の人々は急ぐべきことでないことばかりに心がいって、聞くべきことには目もくれない。そればかりか、ほとけの悟りを謗る者も出てくるだろう。」と、お釈迦さまはちゅうちょされました。それに対して梵天は、「そのような者ばかりではありません。世には水面の葉に邪魔されているが故に水上に頭を出すことのできないハスのつぼみのような者が多勢います。その者たちはもう少しのところにいるのです。だからどうかこの世にとどまってご説法をください。」とお願いされたそうです。その梵天の願いを受け、お釈迦さまはご説法をする決心をされました。梵天は「世に光が灯された。」と喜ばれたといいます。
そのことを思い出しました。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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2017年7月11日火曜日

敬称

いま読んでいる本があります。西本願寺系の勉強をしてきた自分からしてみたら(たいしてはしていない)今更これを確認しなきゃいけないってどういうことだろう?って思ってしまうことが多い本です。でもとても勉強になります。しかし、その本は読んでいてとても苦しいのです。
というのは、「親鸞聖人」と私たちには宗祖と仰ぐ方を一度も聖人を付けず、敬称略ともいれずに最初からたぶん最後まで(まだ途中なんで)呼び捨てです。たしかに学術論文や特定の状況では敬称は付けないことがあります。でも、やっぱり違和感があります。もしかしたら、敬称をつけないような風潮も現在の問題の裏にはあるのかなって思いました。
ごめんなさい、とってもわかりにくい投稿だったと思います。読んでくださってありがとうございました。

2017年7月9日日曜日

日本の盆踊りは海外でBon Danceと呼ばれ楽しまれています。ハワイには34の浄土真宗本願寺派寺院がありますが、それぞれで一日から二日のBon Danceが催されます。オアフ島だけで計38カ所でのBon Danceがあるようです。(ハワイのBon Danceスケジュール

どなたでも参加できる催しです。ぜひハワイに行かれる方はお参りしてください。踊りだけでなく「法要」(本堂でのお参り)にも参加していただけたらありがたいです。日本仏教系の寺院にはたいてい日本語ができる人、日本から移住してきた人がいます。そういう方を通じてよりハワイのことを知ることもできます。
ハワイにも浄土真宗(日本仏教)のお寺がいっぱいある、盆踊りが開催されているなんて、ちょっと素敵だと思いませんか?

2017年7月8日土曜日

昨夜は築地本願寺の常例法座にお参りしてきました。行信教校の大先輩が親鸞聖人のお名前の変遷を通して南無阿弥陀仏のおいわれをお話しくださいました。
「人間って事実で生きているのではありません。そのいのちにどのような意味をもって生きるかが大事なのです。」
ありがたい御縁でした。合掌

2017年7月7日金曜日

白道をゆく

人間にとって一ばん不幸なことは、自分が生涯をかけて本当に求めねばならないものが何であるかを知らないことだ。真に求むべきものを知らないから、あれも、これもとあらぬものを求めて道草をくい、あれでもなかった、これでもなかったと、不満と悔恨のなかで、かけがえのない生涯を空しくすごしてしまうのである。
 人間が求めねばならないものは、ただ一つ、本願の念仏なのだと教えておられるのが浄土の教説である。親鸞聖人はそのこころを
  たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
と和讃された。人間がこの世に生をうけて、知るべきことは、永遠ないのちのみ親の大悲の誓願がわが身にかけられていることであり、なすべきことは、わが名を称えよとおおせられた願いのままに念仏することであり、帰すべきところは、み親のまちます涅槃の浄土なのだ。それ以外のもの、たとえば財産にせよ、社会的な地位や名声にせよ、職業にせよ、ただ旅をゆくものの前にあらわれたこころよい景色ではあろうけれども、なければならない人生究極の目標ではない。
 また、どんなに苦しいことが多かろうとも、淋しい人生であったとしても、それが念仏の申される縁となり、浄土をなつかしむ法縁でありえたとき、私にとってありがたい一生でございましたと、合掌して頂戴できる境地もあるのだ。
(梯 実円師『白道をゆく』より)

2017年7月5日水曜日

大賀蓮


大賀蓮(おおがはす)というそうです。
蓮は仏教を象徴する花です。蓮は清流には咲かず、泥沼に咲きながら決してその泥の色に染まりません。それはまるでほとけ様が安らかなところにとどまることなく迷いの世界(泥沼)に出現し、苦しみの中にある人々を救おうと働き続け、その世界を美しく荘厳していく様のようであるから仏教を象徴する花として尊ばれるのです。
写真は今日のものです。明日には開花するでしょうか。楽しみです。

2017年7月3日月曜日



築地本願寺で布教使の研修会があった時に撮りました。築地本願寺は京都西本願寺の東京支店(別院)のような存在です。

2017年6月27日火曜日

すいません、花ぜんぜん分かりません。だからこちらもネットで名前を調べました。「ハイビスカス」で合ってるでしょうか?お寺の入り口に咲いています。昨日の方が綺麗でした。ハワイでは雑草のごとく、切られても切られても次々と花を咲かせていました。日常のものが非日常になってはじめてその綺麗さに気づく愚かさです。

2017年6月26日月曜日

初盆法要

初盆法要
7/16(日)午前10時、午後1時
盆法要
8/13(日)午前10時、午後1時

大恩寺では毎年七月に初盆(新盆)、八月に盆の合同法要(お参り)を勤めています。
今年は初盆に天岸淨円先生、盆に上野隆平先生と若院がお話をさせていただきます。初盆の対象でない方でもお参りしていただくことができますので、是非いらしてください。天岸先生は若院夫婦の仲人で有り、行信教校(仏教の専門学校)時代の恩師でもあります。とても分かりやすく、楽しくお話をしてくださる方です。
前年の六月一日から今年の五月末日までにご往生された方を初盆の対象にしていますが、それ以外の期間にご往生された方や、大恩寺以外でお葬式をされた方でもお参りいただけます。もちろん、初盆でない方もぜひお参りください。
(初盆をその年の五月末日までのご往生と区切るのは、お葬式後のもろもろの整理や四十九日等でお忙しいだろう為、翌年にゆっくりとお参りされた方がいいだろうという理由です。)