2017年7月18日火曜日

遇獲行信遠慶宿縁

先日、親鸞聖人の真蹟集の中に挟まっていた祖父岡本泰雄のものと思われる書がでてきました。書と言っても余り紙を使って練習したものではないかと思いますが、とてもかっこいい字だと感じましたのでスキャンして汚れをとってみました。
このご文は「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」と読みます。
親鸞聖人は「あう」という言葉に目的をもって数通りの違う漢字を当てますが、たまたまと読む「遇」の字を使って「遇う」(あう)と読ませることがあります。その場合、私の側からは思いもよらず「たまたま」あうことができたの意味になりますが、だからこそ大きな喜びがそこにはあります。(仏さまの側からは必然の出遇いとして味わいます。)
行信とは本願に誓われる「至心信楽欲生我国乃至十念」のことなので、そのまま本願を意味します。
宿縁とは「宿世の強縁」のことであり、遙かな昔より今日に至るまでの様々なそして全ての仏さまによるお育てのことです。
「思いがけずながらも、阿弥陀如来の本願に出遇わせていただいたのなら、はるかな昔より今日に至るまでの仏さまのお働きを慶ばせていただきましょう。」と現代語訳することができるでしょうか。
もし、このように味わうことができるのなら、私が生まれてくる前から、そして生まれてきてから今日までの全てが大切な意味をもつものといただくことができるのでしょうね。それはさらに私の未来にも大事な意味と方向を教えてくれます。
浄土真宗の教えとか、本願念仏の教えと言われるものはそんな意味と働きをもつ教えなんです。

0 件のコメント: