2017年8月29日火曜日

法事とは

「法事・仏事とは(仮題)」本願寺派 勧学(かんがく)稲城選恵(いなぎせんえ)師
 わが国の仏教では、どの宗派でも亡くなった方がたの年忌仏事を勤修する。これを一般に法事とか仏事といわれる。このような習慣は、中国から伝承されたものと思われるが、いかなる意味をもっているのであろうか。死者へのおまつりの如く思う人もあるであろう。またこの年忌仏事を忘却して行わないと、先祖の祟りがあると思っている人もあるであろう。しかし、本来の年忌仏事は他の宗教に見られない甚だ重要な意味を持っているのである。元来、仏事とか法事とは、「仏法に遇わせていただく行事」ということであるが、多くの人は死者に向かい、亡くなった人のおたむけ、追善供養の如くに思われている。それ故、お経もすべて死者へのものの如く思われている。
 死者に対するほんとうの姿勢は、「あなたの死を無駄にしません」ということである。広島の原爆記念日でも「安らかに眠れ」といっているが、これは死者に向けた言葉である。むしろ死者を通じて、生き残されたものが、生かされていく世界に向きを変えることこそが重要である。
 個人の場合でも、主人を失っても愛児の死別に遇っても「あれだけの寿命」ということで流されないことである。肉親の死はつらいものである。だが、その傷みを通して永遠に主人の死、愛児の死を無駄にしない道を考えなければならない。この無駄にしない道は己自身の上にある。愛児を失い、主人を失ったことにによって自らに向きを転換することである。このことを、主人や愛児によって覚醒させられているのである。自らの死の自覚の上に立つと、いかに資産家であっても、名誉・地位・教養のある人も全く絶望の深淵に立たされる。ただ一人この地上に取り残され、全く生きる希望が喪失する。ここに仏法に遇う最大の機縁が恵まれているのである。この至宝に遇うことによって、亡くなった方をほんとうに無駄にしないことになるのである。
 それ故、仏事とか法事といわれるのである。経典は死者に向ける呪文ではない。この私のほんとうに生きる法を説かれているのである。このことを住職・僧侶から伝えてもらう日(場)が、ほんとうの法事・仏事といえよう。
平成十二年七月 稲城選恵
『浄土真宗 臨終・通夜・中陰法話集』「はじめにあたって」より
稲城選恵・梯實圓・秀野大衍 勧学監修 国書刊行会

2017年8月22日火曜日

悪人正機

浄土真宗の教えには「悪人正機」という言葉があります。とても有名な言葉かと思います。もともとの出拠は法然聖人ですが、親鸞聖人のお言葉を集めた『歎異抄』にこの意がでてきますので、親鸞聖人の教えの特徴と考えられることが多いかと思います。
悪人は善人悪人の悪人。
正はまさしき。
機とは救いの対象、めあて。
ですから、悪人正機とは阿弥陀如来の他力本願の救済は悪人を正しきめあてとしていることを表しています。
仏教には、仏さまは良いけれど私が言ってはいけない言葉があります。この悪人正機はそのひとつです。私が私の上で悪人正機と言うとき、そこに自身の悪を恥じる姿はありません。悪人正機とは、自身の罪悪を恥じ悲しむ者に対して仏さまがおっしゃる言葉なのです。
同じように仏さまだけが言うべき言葉があります。「そのまま救う」という言葉です。仏さまと、私と、教えを医療の関係で喩えることがあります。仏さまは医者、私は病人、そして教えが薬です。お医者さまは病人に対して「そのまま病院に来なさい」と言います。治してから来なさいとは言いません。また、病人はあるべきでない状態にあるから病人です。決してそのままで良い状態にはないのです。「このままで良い」訳がありません。「そのまま救う」というのは仏さまの大悲の言葉であって、それを「このままで良いのだ」と考えるのは私の自分勝手な都合のわがままでしかないのです。
仏教は私の本当を教えてくれます。私の本当を仏さまは「悪人」と呼ばれました。「悪人を必ず救う」とおっしゃった本願のお言葉を私たちはもう一度大切に考えてみるべきですね。

2017年8月19日土曜日

お焼香

先日、なぜマナー講師にお焼香の作法を聞いて僧侶には聞かないのだろうという先輩のコメントがあり、まさにその通りだと思いました。マナー講師は仏教については素人なので(ごめんなさい)大概間違った焼香作法を言ってますよ。宗派によっても違いがあるので注意しましょう。西本願寺と東本願寺でも違いがあるくらいです。
下は参考までに西本願寺のお焼香作法です。お焼香は仏さまに対する香りのお供え(供養)です。挨拶の場ではないので右に礼、左に礼は不要ですし間違いです。

2017年8月18日金曜日

IFTTTを利用してブログの更新をFBに反映させているのですが、ちょっと遅い。それからリンク形式になってしまう。ということで、FBにもコピペしてみました。同じ投稿の案内が重複してくるかもしれません。ご迷惑をおかけします。

from 大恩寺 http://ift.tt/2ucD9bV
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もったいない

朝テレビを見ていたら、「インスタ映え」というテーマで旅行や食べ物のことを特集していました。写真をSNSに投稿して「リア充」(現実が充実しているの意か)を人に見てもらいたいそうです。そのための見映えする写真をとるために出かけていくのですと。すごい見栄っ張りなんだろうな。昔漫画で読んだ成金のおじさんが高級車を見せびらかしてニコって笑うと金歯がキラリと光るのが思い浮かびました。
それを見ながらふと「勿体ない」とつぶやいていました。勿体とは物事の本質を意味し、それが失われることを勿体ないといいます。(他にも意味はあります。)インスタ映えする写真を撮るために溶けてしまったアイスクリーム。インスタ映えするから選ぶ旅行先。私もSNSは好きですが、SNSは飽くまでもツールです。ツールのための食事や旅行はしません。
たまたま同じ今朝、フェイスブックで共有されていたアメリカ海軍提督のスピーチを見ました。(https://www.youtube.com/watch?v=pxBQLFLei70)その中で、「見た目や、出自、肌の色、肩書きで人を見るのではなく、その人の心の大きさを見なさい。」という一段がありました。インスタ映えとは真逆のスピーチでした。
「インスタ映え」のためってなんか勿体ないですね。

2017年8月14日月曜日

お盆法要

昨日は大恩寺のお盆法要でした。大勢の方がお参りくださいました。
午前のお参りが始まる前に高尾警察署の警察官が来てくださり、振り込め詐欺についてお話しをくださいました。テレビで見聞きしていることもありましたが、実際に本職の方の顔を見て話を聞くのは違いますね。初めて聞くこともあり、大変有意義だったと思います。
「電話番号を変えた」「市役所の某です」「警察官の某がいまから行く」「ATMに行って」「カード見せて」「暗証番号教えて」などなど、これを考える時間と労力を他に向ければ真っ当に稼げるだろうに、と思ってしまうほど手口は巧妙になっているようです。
皆様もご家族で話し合って対策を考えてください。

2017年8月5日土曜日

法事の場所

暑いですね。蒸します。
今日お墓で納骨がありました。お寺の本堂で四十九日をお勤めしてから霊園に移動しての納骨でしたので、お骨を納めて短いお経をいただいて、墓前では待ち時間を含めて30分もかからなかったと思います。それでもかなり暑かったです。
ときどき、年忌法要(一周忌とか三回忌などのいわゆる法事のこと)をお墓でやってくださいとお願いされることがあります。もちろん断ることはしないですが、積極的にこちらから墓前でやりましょうと勧めることはしません。納骨や建碑(お墓を建てる)というお墓でなくてはできないお参り以外は、お寺やご自宅の仏壇前でお勤めされることを強くお勧めいたします。
理由はごく簡単です。それは「落ち着かないから」です。想像してみてください。この猛暑の中、30分間立ちっぱなし。極寒の中、30分間立ちっぱなし。雨の中、立ちっぱなし。強風の中、立ちっぱなし。蚊も飛んでいます。近くでは別のお参りの方もいらっしゃいます。となりのお墓の方がお参りに来ていることもあります。
お墓参りを法事の一部としては考えなくて良いと思います。法事は法事。お墓参りはお墓参り。お寺で法事を勤めてからお墓参りに行くとか、お墓参りを先にしてからお寺で法事とか。同日でなくてもいいです。それから、基本的にお墓参りにはお坊さんは同行いたしません。先ほど述べた納骨や建碑などの特別な場合にお坊さんはお墓に同行してお参りをします。
ですので、法事はぜひご自宅かお寺でお勤めください。本当のところをいうと、お寺ですることが一番いいですよ。専用の施設ですし、こちらで全ての準備を整えてお待ちしてますからね。蛇足ですが、お堂の使用料や道具のレンタル料もかかりませんしね。
以上述べたことは他の宗派では違うかもしれません。また、大恩寺では納骨堂や無量寿堂に納骨されている場合、本堂での法事の後、僧侶が一緒に納骨仏壇前で短いお参りをさせていただいています。

2017年8月2日水曜日

詩人八木重吉

本を読んでいたら、聞き覚え(見覚え)のある詩人が紹介されていました。それは大恩寺にほど近いところの出身である八木重吉氏です。実はお寺から車で5分ほどの距離にこの方の記念館があり、そのため「見覚え」があったのでした。

「求めよ 与えられん」
しかし
寂しい 路だ
息づまるように さびしい
でも
行かねばならぬ
行かねばならぬ

「この世があまりにもみにくすぎるから、自分自身があまりにも虚偽にみちているから、それだけに、一度でもいい、真実なるものにふれてみたい、真実の世界をたしかめてみたいと切に願うものは、重吉のように、寂しくても、行かねばならぬ、人生の旅人たらざるをえないのである。」(梯実円師『白道をゆく』)

八木重吉氏は町田市相原出身の詩人であり、詩の言葉から分かるようにクリスチャンでした。今年、八木重吉記念館の館長であり、息子さんであった八木藤雄さんが亡くなられたため記念館は休業中ですが、昨日問い合わせの電話をしたら10月を目指して開業の準備中だそうです。ぜひ一度訪れてみたいと思います。